2017年10月15日日曜日

栗原康さんのインタビュー前編を掲載しました。

昨日、横浜で行っている「新ひきこもりを考える会・読書会」にSkypeで参加しました。
取り上げたのが本日インタビューを掲載した栗原康さんの『村に火をつけ白痴になれー伊藤野枝伝』。

10名程度の集まりでしたので、話はかなり深堀りとなって、知的刺激が非常にあるものでした。ひきこもりについて考える会の読書会ですが、ひきこもりに引きつけての話になったのはおおむね3割程度ぐらいではなかったかな。ですから、伊藤野枝さんについて、栗原さんの文章・文体について(元気になる、スカッとするなどの評価が多い)、そしてアナキズムの現在性についてなど、この方面に大変詳しい方などもおり、私自身が得をしましたし、作者の考え方に傾斜した正当なノリの読書会も珍しく、これはこれでアリだろうし、枠組みに広がりが出ていていいなぁとしみじみ思ったのでした。個人的には。

アナキズムと人類学の研究者の現在的な再評価の関係があり、その方面では有名な、インタビューで栗原さんも紹介されていたデヴィット・グレーバーの名前が出たり、『実践日々のアナキズム』という本の著者で人類学者のジェームズ・スコットさんの本の解釈をしてくださる方もあり、ありがたいことでした。

確かにアナキズムの先駆的な大物であるクロポトキンのような人は進化論が席巻した時代に生物の一個体の強さよりも、社会的な相互共同をする生き物のほうが進化適応的であるとして、また、人間ももともとは血族→氏族の小集団的狩猟採取的生活で生きて、場所を接する他の氏族とは、争闘にならないさまざまな方法論を持っていたことを伝えていて、そういう原始的な相互扶助的な生活を、現代の人類学者が少数民族のフィールド・ワークを通じて発見する、ということでおそらくこの息詰まるような管理社会、管理国家が見失っているものをアナキズムの知見を通して再発見していくということがあるようです。

僕としてはやはり自分の「チキン・ハート」の中に眠っている「反権威」「反権力」の生理(それはある程度思春期の頃に出会った反体制的ロックの影響もありますが)と、ここ2000年代以降に感じ始めた、「国家とか、政府とかは本当に国民に奉仕してるのか?そうではないんじゃないか?」2012年以降は「実は国家やマスメディアは国民をいいように利用しようとしているだけなんじゃないか」という疑念がぬぐいがたく出てきたのです(乱暴なくくりですが)。
そのなかでいまアナキズムから物語る人が出てきたことに何とも言えない勇気をもらっているというところです。

まあ、なんか立派なことを書いてしまいましたが、栗原さんのスタンスはおそらく、「いいんです、いったん思ったことは言ってしまいましょう」という感じなんじゃないかと思ってまして。そういう意味においても勇気をもらえるわけです。
(インタビューはこちらから。)

さて、本や雑誌を通してみる栗原さんの文章は、文字通り「煽らせてもらいますぜ!」という感じで。煽りパワーはいま文筆の世界でも一、二じゃないでしょうか。ある部分で研究者の枠組みを超えていくようなところもあるので、直近のコラムなどは読んでいてハラハラするときさえありますが、実際にお会いしたご本人は大変腰の低い、気配りの人。(トークショーなどでは対話の相手の人の本の話が出ると、すぐ参加者に見えるように本を掲げたりされる人です)。栗原さんに関心のある人は承知されていることでしょうが。
でも、事前情報として栗原さんを知らない人は相当なギャップを感じるはず。おそらく相当コワイ人をイメージするんじゃないでしょうか。
そういう意味では今回のこのインタビューは栗原さんの紳士的なところが十全に出ているんじゃないのかな。

で、今回自分がとったアマチュア極みの写真を見ても「ハンサムだよな~」というのと、「全然優しいルックスだよなぁ」という。なんか保育士さんなぞされていたら、子どもにも絶対なつかれるだろうし、何より保護者のお母さんにモテモテになりそうだ(笑)。
でも、思想はアナキズム。思想無縁の保護者をイメージすると、そのギャップにけっこうぶっ飛ぶだろうなぁ、まあ、どうなんだろうね?とか空想してみたりして。

と、最後は雑談でした。どうも失礼しました。
大変多忙な栗原さんなので、インタビュー後半掲載までまだ時間は少々かかるかと思いますがご容赦ください。どうかお楽しみに。


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