2016年12月31日土曜日

ヒューマン・スタジオ所長、丸山康彦さんのお話をお届けします。

本年もはや、大晦日を迎えました。
皆さま、どのような一年でしたでしょうか。

本日、今年最後のインタビューとして神奈川県の元当事者活動家の四人目、しんがりとして「ヒューマン・スタジオ」の丸山康彦さんの密度の濃いお話をお届けします。
新年の宵を、遅い時間まで楽しまれるかたも多いと思いますが、別の選択肢としてひとつ、デリケートで深い話をじっくり味わうのも一興ではないかなと。そのように考えるかたがたに、ぜひこの丸山さんの実践活動のお話を吟味していただければと。

この4月に東京で行われた「ひきこもりUXフェス」の翌日に伺った二度目のインタビューですが、冒頭に記したように、二度目のインタビューは丸山さんの支援に関する実践哲学と実際に活動を行っていくうえでの気づきの話にフォーカスをあてたものとなり、このたび久しぶりに読み返して、内容の貴重さぶりにうなりました。このようなお話を無料で伺えることは冥利につきます。

丸山さんの支援の姿勢は、ご本、「不登校・ひきこもりが終わるとき」を読んでも分かりますが、実に深い洞察に基づき、堅実な姿勢で貫かれた、着実で地に足がついたものです。私には「支援」というよりも、「配慮」という言葉こそが丸山さんの実践には適切な気がします。
そして、「配慮」の本質こそ、このインタビューでの語りにおける丸山さんのバランス感覚であり、上つかない姿勢と気づきにそれは尽きる気がします。ですので、私が思う最も良質な「配慮」とは、かなりの精神的なエネルギーを要するものだと思います。そのようなエネルギーの注ぎ方が出来るのかは、おそらくご自身の経験に基づくもので、その経験が誠実で静かな熱い思いを丸山さんの中に滾らせているものかもしれません。

すぐに浮つき、あせり、答えを求めたがる自分の態度も丸山さんとの対話でよく見えてきましたし、このインタビューから自分が学ぶことが多いと改めて思った次第です。丸山さん、本当にありがとうございました。

刺激的ではなくとも、何か新しいものを補給したいかたがた。ぜひ、年明けにこのインタビューを読んで戴ければ幸いです。それではみなさま、良いお年をお迎えください。

とまこまい生きづラジオ 出演しました。





 昨年の秋ですが、友人の藤井昌樹さんが活動されている「とまこまいフリースクール検討委員会」の「生きづラジオ」の第四回目に出演しました。お時間があるかたはゆるゆるとご覧いただければ幸いです。

2016年12月6日火曜日

思春期の問題を研究している加藤弘通さんのインタビューを掲載しました。

本日、この9月30日に行った、思春期の問題研究をされている、北海道大学大学院教育学研究院の加藤弘通准教授のお話を掲載しました。
今回も結構なロングインタビューですが、思春期といえば、のちの成人に移行する際におそらくアイデンティティの基盤をなすであろう時期。ぜひ多くの人にお読みいただきたく思います。

お話は加藤先生の思春期から学生時代の話、ひきこもりについて、教師の役割についての詳細な話、そして即効的な答えを求められる風潮について、果ては老齢期についてなど、話は大変多岐にわたりました。(最後の点は私がかなり引っ張ってしまったきらいがあります)。

それら多岐にわたる話の中でも、特に「荒れたクラス」を研究されてきた加藤先生にとり、教室が荒れるか荒れないかの差異の大きなひとつは面白い授業であるのかどうかに尽きる、教師の授業に対する熱意が役割の本流で、それによって生徒たちが学校の教室が関心の持てる場所になれるという趣旨の部分に語りの比重があると思いましたので、今回はあえて「教師の仕事は「授業」という本道で」というタイトルにしました。

とはいえ、加藤先生はひきこもりの青少年たちの支援に関わってきた経緯もありますので、ひきこもり問題の着眼も大きく、そこもぜひ読み込んで戴ければと思います。

実は加藤先生はけっこう僕が好きだったサブカルチャーにも親和性が高くて、けっこうマンガ、サブカル系の批評家についてなどなどの話でその日はかなりその話題で盛り上がったのです。流石にそこら辺はインタビューから省きましたが、私もインタビューアーとして、つい調子に乗ってその点は話し込んでしまったきらいがありますね。

そのように柔軟で、若者文化にも随分入れ込んできたかたですので、「話がわかる人だなぁ」という印象が非常にありました。
 最近は80年代の終わりから90年代のサブカルチャーの中心の人たちがすでに論壇の中心にいたり、そういう人たちの影響を受けた人たちが裾野広く社会で活躍していることを考えると、僕ももう少し青年時代に関心を持ったものに後ろ暗く思わずに、もっと「好き」を大事に考えておけばよかったなぁ、と今更ながら思います。70年代の「ロンドン・パンク」から始まり、80年代のサブカルはひと通り関心をもって通過したような気がするのですが、いつも自分にとってそれは「後ろ暗く」て、「社会からは糾弾されやすいもの」と勝手に思い込んでいた節があります。

いま、そういうものの洗礼を受けた人に出会える機会が訪れると、自分が思春期青年期に好きになったものを別に後ろ暗く思う必要は無かった、むしろそれらを追求することが何かを生み出す形になるかもしれなかったとも思います。(性格上のこともありますので、なんともいえませんが)。

ひきこもりや不登校、あるいは「学校がつまらないこと」が極まる、その他。若者時代にはいろいろ悩みがある時期ですが、そんな時代も「自分の好き」を否定せずに継続し、むしろ徹底的に追求すれば何か道が広がる、開ける可能性もあるかもしれません。(そのツールでどう自分を生かすかが考えどころでしょうけれど)。
おそらく加藤先生もそのようなことを暗に伝えたかったんじゃなかろうか、と思うのです。

あまりにも「あたり前」な結論の言葉かもしれませんが、やはりそういうものはあるような気がします。

2016年11月20日日曜日

乳幼児研究をされている川田学さんのインタビュー、掲載しました。

お待たせしました。インタビューの更新です。
隔月というペースですが、この8月8日に北大の「子ども発達臨床研究センター」でインタビューさせて戴いた川田学北海道大学大学院教育学研究院准教授のお話を本日、掲載させていただきました。
「子ども発達臨床研究センター」は、教育学研究院の裏手、木々が健やかに生い茂る自然の多い場所に静かにたたずむ瀟洒な建物です。(ちょっと外観は古いかな。それだけに懐かしく馴染みやすい)。

川田先生は乳幼児の研究と幼稚園などでの実践の研究をされているかたで、論文はネットでけっこう読むことが出来ますが、もともとは私にもコラム依頼があった「さっぽろ子ども若者白書」という、乳幼児から青年期まで、研究者から現場のNPOの活動家の実践報告まで載せたほかにあまり見当たらない貴重な青少年報告書で初めて認識したのです。

この白書は子どもや若者支援のNPOなど、市民活動をされている方々のほぼが原稿を書かれていたとはいえ、私は最初は「白書」という言葉のイメージに囚われて、それほど心動かされることなくまず序章の姉崎洋一先生の概観を読み、そして第一章の川田先生による論文、「乳幼児期の発達と子育て・保育の現状」に目を通し始めたのです。そのとき思わず、「何だこれは!これは今までの乳幼児に関する話題を論じた文章とは内容も観点もきっと見たことのない、初めてのものだぞ」とすっかり魅きこまれてしまったのでした。そしてこのかたにお会いして、ぜひともお話を伺いたい、と思ったわけです。

ちなみに、ぼくは子どももいませんし、当然子育ての経験もないわけで、最初は何の期待もしないで読み始めた内容だったのですが、「乳児のときから何か人間のその後における根源がすでにありそうだ」と思ってしまったのでした。今でもその考え、間違いなのかもしれないのですけれど、そう思っている次第です。

そして実際にお会いした川田先生は思った以上に若くて、事前にさまざま読める論文の成熟した印象とはまた少し違う、瑞々しい感じと、柔らかな雰囲気に満ちていました。そしてこちらの話の拙い連想にもどこまでもついて来てくださいそうな柔軟さをお持ちのように感じました。
何よりも嬉しかったのは、素人のこちら側の問いかけにも、けして語る内容を引き下げることはなく、相当な内容を惜しみなく語ってくれたと思われることでしたし、その後レコーダーを起したときにもため息が出るほど濃密な語りをしてくれたなあと改めて思ったものです。(素人だから必要以上に感動したのかもしれません)。

内容は川田先生が自分の研究の参照枠にしているワロンという発達心理学者の話を中心にしながらも、かなり幅の広い話題の展開になりました。
特に川田先生のひとつのターニングポイントになったであろう、学生時代の異性全身介護の重度障がいの女性のかたとの出会い、そして障がいのあるかたたちとの「自立」を巡る議論が大きかったのだろうと思います。
そのあたり、インタビューもたぶんに濃密な内容な分だけ、抽象的な話になっているかもしれませんが、川田先生の話が抽象的に終らないのは、そのような具体的な経験に裏打ちされているからであろうと思います。

たくさんの良い話を聴いてきて、でもその中でも広い意味でも参照枠の多いインタビューが出来たのは光栄な限りです。
「個人は自分の中に他者をはらむもの」。そういう考えがワロンなどから生じた意味などもぜひかつての歴史的経緯なども含めて考えて戴ければ幸いです。
長い内容ですが、関心のある読者様。ぜひ少しずつでも読み進めて戴ければ光栄の至りです。

最後に、今回の参考にした文献をあげておきます。
川田学先生の論文(インターネットで拾えたものより)
・年齢、獲得、定型
・他者の食べるレモンはいかに酸っぱいか
・発達の研究と社会的合意の間で
・異年齢期カップリングの発達学

・ワロン/身体・自我・社会 (浜田寿美男訳・ミネルヴァ書房)
・子ども学序説 浜田寿美男(岩波書店)
・「私」とは何か 浜田寿美男(講談社選書メチエ)

2016年9月22日木曜日

STEP世話人、近藤さんインタビューUP!

 
横浜の老舗ひきこもり自助会「STEP」の世話人で、まだ30代前半の近藤健さんのロングインタビューをお届けします。
飄々としたユーモラスな語り口、温和で柔らかな人柄ながら、ひきこもりの自助会と接点を持つに至るまでに一度大きな精神的なアップダウンを経験、近藤さん自身はひきこもり当事者とは言えないと思いますけれど、ひきこもりの人に対してとても親和性をお持ちのかたです。また、インタビューの後半には社会に関する新しい考えも披露してくれています。

ぼくは話を聞いているあいだ、本当に純粋で天使のような心をもっている人だなという思いを持つと同時に、軽やかな新しい感性に頭の中がクリーンになるような、硬直したこちらの「あたり前」がサラッと「大丈夫?」と問い直しをしてくれる感じがありました。(勝山実さんの『安心ひきこもりライフ』を読んだかたならば、近藤さんの何気ないことばの中にハッとするような新しい着眼点を見つけることができるでしょう。所謂ひきこもり支援者の人にぜひ読んでもらいたい内容です)。

おそらくまだ「これ」という枠組み、というものでは固まっていないかもしれないとしても、実に深い思索の力を持つ人だと思いました。「新ひきこもりについて考える会・読書会」でもどんどん鋭い角度から言葉を発しておられている印象があります。今後が楽しみな人なのでぜひ先物買いだと思って、雑談的な要素がありつつも、このロングインタビュー、読んでくださったら嬉しいです。
こちらも4月のUXフェスの次の日のインタビュー。こちらの諸般の事情で近藤さんに校正をお願いするのが8月下旬になってしまい、掲載が遅れてしまいました。お詫びいたします。

近藤さんが世話人をつとめる自助会「STEP」さんのホームページはこちらです。

2016年7月28日木曜日

10代と50代 不登校体験を語る


 上記のタイトルで朝日新聞の教育欄に記事が載りました。
 対談をさせていただいた本橋璃央さんはNHKのハートネットテレビのドキュメンタリー的な番組にも出ていて、想像通りの人だなと思いました。
 初めてお会いしてみて、意志的な目がとても印象的でした。外側に向かって悩みながらもぶつかっていく姿勢を感じて、個人的には強い子じゃないかな、僕が16のときとはぜんぜん違うな、といろいろな意味でうれしかったのです。(ご本人はつらいことも多いとは思いますが)
 
 意志があること、角がたつことは僕は10代にとってもとても恐れていたこと。彼女もそうだとは言ってましたが、乗り越えていこうという姿勢は僕は番組を見ていてすごくかんじたし、すがすがしいなぁと思いました。

 通りすがりの人間は黙って話を聞いてそこで終ればいいのですが、中年ダメオヤジの嫌らしさで新聞記事をこうして宣伝しています。

 本を売りたいのですよ。買ってくれ~~ってね。
 いやらしい。若者よ、絶対反面教師にして欲しい。

2016年7月23日土曜日

林恭子さんのインタビューを掲載しました。

横浜と都心で活躍されている元ひきこもり当事者、林恭子さんのインタビュー、大変遅れてしまいましたが、掲載させていただきました。
元々、東京で行われた「ひきこもりUXフェス」後に注目していた横浜の活動家三人の方へのインタビューのラストのおひとりでしたので、UXフェスの二日後、4月18日に行ったものです。随分掲載が遅くなってしまいました。

五月の中旬頃から両親ともに心身の体調が悪くなり、個人的に家族内調整に時間をとられるようになってしまいました。現在もそれは続いてはいるのですが、時期的に6月くらいが一番大変だったので、林さんご自身に校正原稿をお渡しするのがずいぶん遅くなったのは、手前の不手際ゆえです。

インタビューは林さんのいままでのライフヒストリーを網羅した内容で、ひきこもりに関心のあるかたには是非読んでいただきたい、たいへん貴重な内容です。実際、勝山実さんも含めて加えた四人の方の体験的インタビューは格別な説得力があり、今後も掲載していきますけれども、注目しておいていただきたいと思います。

林さんに関してはタイトルを「管理された身体からの解放」としましたが、適切かどうかはわかりません。私の、話を聞いた全体の中での直観にもとづいてそのようにつけました。林さんの語りはどの局面をとっても貴重な内容なので、タイトルというものをつけるのは難しかったのです。ただ、やはり「管理される身体」の問題は、いま現在の若い人たちにも通ずる大きな要素だと私は思うのです。

林さんは管理されることに疑問を持ちながらも、「人を傷つけるのも、傷つけられるのも嫌だ」という優しさを抱いて、そこで命を懸けて苦しまれてきた方です。
「優しさと根底的な疑問」が不問にされる不条理の狭間の中で生きてこられた。その場で話を聞き、聞きなおし、原稿を何度も読みながら、考えたことの大きなひとつはそのことでした。

ひきこもりのひと一般、とはもちろん言いませんが、必要以上のものを背負ってしまった苦労を抱いてそこに生きる時間の多くを割いたというひきこもりの人は多いのではないかという気がします。

でも、私はそこで希望を損なわれた、時間を無駄にした、何かの犠牲者だと思うのは早計だと思います。(もちろん、そう思うときは当事者自身としてもあることですが、そこに絡めとられる必要もないということです)。

林さん自身が意識されていたかは分かりませんが、一生懸命に自分と向き合って、まっすぐに悩みきったぶん、ちゃんと出会うべき人に出会ってきた、良い人と出会ってきたんだろうなという気が非常にします。その結果として、ひきこもり史の真ん中のみならず、「不登校」界隈でもポイントとなる人と会ってきている。そういう行動を取ってこられたし、そういう人たちのレスポンスもちゃんと受けてきたんだろうなあと思いました。それは才能ではないかと思いました。

実は、実際に出会った林さんはひきこもりの「ひ」の字も似合わないような、キャリアウーマンと見まがうかのような人でした。根本的な素養が備わっていた分、凡庸な自分は素朴に、「惜しい時間を過ごされたんだろうな」と生意気にも感じてしまいましたが、恩師の泉谷閑示さんが仰っていたように普通の人が行かない道の先頭を歩く人なのでしょう。

活動の場所もずれてはいない。いまはUXフェスのあと、UX会議として「女子会」が始まっていますが、そういうトレンドもある必然性を持つ林さんには適宜適切な意味と動きの中にあるといえると思います。

2016年6月30日木曜日

地元ジャーナル紙のインタビュー記事を掲載しました。

地元老舗ジャーナル誌、『北方ジャーナル』昨年12月号に掲載された個人インタビューを、取材してくれたひきこもり、不登校関係の専門ジャーナリスト、武智敦子記者の了解を得てこのホームページに再掲させていただきました。→こちら

話は3時間以上した記憶があるので、かなり広範でけっこうディープな内容になっています。
自分でも何を話したか覚えていない部分も多くて、不登校、フリースクールなどの話はかなり印象論で語ってしまっており、その点は大変申し訳なく思っています。その領域を知っているわけではないのに......。

そのように軽はずみな発言もありますが、インタビューの最初と最後は結構、思いはその通りのものです。
また、いま時期の課題がラストにやや予言的に述べられているところもあって、興味深いです。

いまの自分は父親の身体介護、母親の認知力の問題と、親介護の問題が一挙に両方持ち上がってきていて、医療介護領域の方々とコーディネートしたり、身体問題がない母親の見守りとなかなか自由にならない身になりましたが、いずれも通らねばならないことであり、ひきこもりかそうでないかは関係なく、親介護の問題というのは中年世代が突き当たる新しい認識へ向かう重い扉です。

変わらなければならないことと、変わってはならないこと。いまはまだその整理はうまくつきませんが、それを自分の中できちんと仕分けしていく必要を感じています。

今度の選挙もそうです。国や人びとが大きな目標を掲げてそれを夢見て手足を外へ外へ広げていく開拓者モードで行くのか、それとも「生活」という「日常」にかかずらわる精神のウエイトの方向へ行くのか。そういう選択でもあると思っています。

個人的にはこの成熟した社会では「POWER」志向ではなく。「COURAGE(精神力)」の時代に入っていると思っていますが。

2016年5月29日日曜日

新ひきこもりについて考える会・5月読書会参加。

 昨日は横浜で行われている『新ひきこもりについて考える会』5月読書会にこちらのインタビューサイトである「ユーフォニアム」を取り上げてくれるということで、会の世話人のかたがたにワガママをお願いして今回はスカイプで参加させていただきました。
 前回のブログ案内の通り、4人のインタビューの内容をとりあげ語り合いました。
 スカイプの音声はとても良好で、みなさんのほうにちゃんと声が届いたようだし、こちらもみなさん(参加者10名)の全員の声はよく聞き取れました。

 まず、改めて確認しておきたいのは、1月の読書会で横浜に参加した際の『ひきこもる心のケア』の話し合いに出て、少なくともひきこもりに関する集まりについては自分としては「この場はすごい」「こういう場所を自分は求めていた」ところで。その上で、いま自分が具体的に行っている活動はこのインタビューサイトなわけで、そこに着目してくれたのも「考える会」が初めてだったし、それを読書会に取り上げるという、おそらく読書にHPを使うのも滅多にないことだと思うので、本当、光栄でした。そして何より、初めて公に自分のいまやっている活動が認められたなと率直な喜びがあったのです。

 内容に関しては特に釧路で困窮者自立支援制度の活動を行っている昨年3月末にアップした櫛部武敏さんが大変好評で、それからひきこもり名人、勝山実さんのインタビューが好評でした。
 実は予習的に今回取り上げてくれた4人のインタビューは読み返したのですが、やはり櫛部さんのインタビューはいま読み返しても「すげえな」と我ながら改めて思った次第。櫛部さんの語る内容の深さ。行動とその振り返りと、教養とそれら全体が自らの中に統合された大人の知恵。そして生きざまのありようのかたち。かといって立派なだけじゃなくて、「恥じらい」や「照れ」や「反省」も大事にされるかたなので、人間的な魅力はどうしても「ありあり」です。困窮者支援の概略も含めて櫛部さんのインタビューの感想はこちらの過去ログをご覧下さい。

 勝山さんのインタビューは前編後編に分けての長文で文字通り「長いですね」という感想があり、「でも時間が有ったので全部読みました。面白い」とありがたいやら、苦笑いするやらで。結構インタビューの枠組みを離れて雑談モードの中身でも面白く読んでくれたんだなあと感謝するばかりです。これはもう、勝山名人の語りの才能にこちらがおぶさったとしか言えず。本当にこれもありがたいこと。

 今回はスカイプで音声参加したので、自然な自分の会話が反映できました。個人的な振り返りのためにレコーダーで夕食以後ずっと聞き返したのですが、自分の話しかたに関して言えば、語られている話題に対する自分の考えやそれに付随する想像と、みなさんの話の全体とを両方かぶせて話をしようとする傾向があるんだなあと思いました。そうするとまとめようとする意思はないつもりだけど、何となくまとめ的な話しに持っていく方向がある気がします。それできれいにまとまればいいんだけど、途中で「あれ?この点の感想忘れてる?」とか、「元々話そうと思っていたことがずれてきてるぞ」とか考え始めて、何となく「もぞもぞ」「ぐにゃぐにゃ」な感じになることも多々ある。

 要は、思ったことは思ったときに口にすればいいんですが、元々そういう風に話すことに慣れてないせいなのか、性格なのか、環境的にそういう振る舞いを選択するようになったのか。それはわかりません。でも、もっともっと、思ったことは思ったときに口にする癖を少し増やしたいな。苦手な部分なので。

 あと、ときおり滑舌が悪くなるときがある。これは明らかに聞き手が聴き取りに困るので直したい。ま、簡単にはいきませんけど。こういうことは自分の年になると人から指摘されなくなるので、自分で気づいていかないと。

 SSTとかは外部から訓練的にされるのは嫌ですが、この読書会の場は素敵な、話したいことも聞いてもらえる場所なので、その現実をもっとじぶんとみなにうまく循環できればいいと思うので、多少こころがけたいと思いました。7月の読書会もスカイプ参加どうぞ、と言ってくれたので、ありがたくまた参加したいと思います。嬉しいな。

 さて基本的には自分はやはり話すより「聴く」のが好きだし(あえていえばだけど)、得意はそっちかな、と。「パッシブを生かしながらそれをアクティヴに変えていく」作業に今後も軸足を置いていきたいと思います。そうするとそれはやっぱりインタビューになるだろうと思います。
 インタビューに関して言えば、提供に関して「編集をあまりしない(出来ないというのが正確?)ライブ感覚のインタビューでいいのか?」ということに関しては、当面この方向でいい、という風にして行こうと思っています。
 聞き手が素人だなあというのがありますけど、聞く対象のチョイスは悪くないと思う。この自分の直観でまだまだ当地でも話を聞きたい人は頭の中にはたくさん浮かぶので、「人文社会」の枠で何でもアリは続けて行きたいものです。アンテナも張っていかないとね。

 今後は横浜のひきこもりに関する活動家の人たち三人を順次、ペースは少しゆったり目かもしれませんけど、いい話が満載ですので、どうかひとつ、このインタビューサイト・ユーフォニアム、よろしくお願いします。

2016年5月15日日曜日

このところの活動履歴です。

ブログ記載は久しぶりです。
マイペースながら活動の幅を少しずつ広げています。
それらの内容について少し振り返って行きたいと思います。以下、長文になりますけれども。

まずは今後の予定から。
1月にお邪魔し、「ひきこもる心のケア」を取り上げてくださった横浜で行われている『新ひきこもりについて考える会』の読書会。(新ひきこもりについて考える会については『不登校新聞社』のこの記事に簡潔に紹介されています)
今月5月28日(土曜日)に本インタビューサイトの過去インタビューを素材に横浜で読書会を開いてくれます。取り上げてくださる人たちは櫛部武敏さん平野直己さん野村俊幸さん勝山実さん。

遠方(札幌)住まいの私は今回は我がままをお願いして、スカイプで参加させていただくことにさせてもらいました。1月にお邪魔させていただいた際の読書会のインパクトが強烈で、今回二度目の自分の活動に関してなので、いてもたってもいられなかったのです。

何より、このインタビューサイトの記事を読書会に取り上げられることがこころから嬉しいことでした。手前味噌過ぎて気恥ずかしいのですが、インタビューイーの人たちがみな素晴らしい話をしてくれて記事の内容には自信がありました。ただ、おそらく編集にあまり手を加えない「ライブ感覚」を最重要視しているため、読むのに時間がかかる。あるいは記事の流通の方法論に弱みがあって残念ながらあまり知られていない部分がまだまだあるサイトだと思うのです。

その中で「ひきこもる心のケア」のみならず、本サイトにも着目してくれたのはシンプルに嬉しく、ひきこもりに関する本、その近縁の本を100冊以上読み、100回以上読書会を開いている横浜のガチでハードコア(?)な話し合いをしている場所にこのサイト記事を加えてくれたのは本当に光栄だし、このインタビューサイトが何かようやく報われたな、と正直思いました。けして報われることを求めているわけではないですが、「届いているよ」という応答が老舗の「考える会」の読書会であるというのが喜びです。その応答がUXフェス参加前であった、ということもまた嬉しさに輪をかけることでした。

その『ひきこもりUXフェス』というイベントに私も到着が午後でしたが、参加してきました。主催と運営はもともと不登校・ひきこもりなどの経験者です。あるいは発達障がいの傾向などがある人です。私はもともと、このフェスに参加することと同時に、1月の「考える会」参加と同時に行った勝山実さんと、ひきこもり相談所「ヒューマン・スタジオ」を運営する丸山康彦さんのインタビューが目的でもあり、今回の訪問は丸山さんと、UXフェス運営者でもある林恭子さん、フェスでも行われたひきこもり自助会STEP世話人の近藤健さんのインタビューも目的だったので、両方の目的も無事(というか、最高度な形で)終らせることができました。UXフェスの全体運営のひとり林さん、フェスで自助会を回していた近藤さん、そしてブースを出していた丸山さん。このお三人のひと頃本当に大変な時期があったことを事後に知った自分としては、精神的に本当に大変な青年期を過ごすことがあっても、立派に社会活動をされる立場になれるんだ、という勇気を改めてもらえたなと記憶が呼び返されます。丁度いま、フェス雑感を依頼された自分の記事が載っています。
なんとも稚拙な内容ですが、宜しければ読んでみてください。ひきこもりUX会議のホームページブログに三回に分けて掲載されています。(前編・「働く」、中編「生き辛さをどうする」、後編「まとめ編」)

また、神奈川のひきこもり支援サイト『ひき☆スタ』にUXフェスに主催・運営者のお一人、不登校新聞社編集長・石井志昂さんへの今回のフェスに関するインタビューが掲載されています。これが痺れるほど「そうだろうなぁ」と本質的な話になっていて実に素晴らしいのです。ぜひ読んでいただきたい。
ひき☆スタ【取材レポート】「ひきこもりUXフェス」に行ってみた。

不登校新聞には同社の取材の一環で自分も帰省日に同社を訪れることができました。私自身、不登校新聞は発刊時、一年間だけ新聞を取っていたこともあり、訪れたい場所であったのです。NHKのテレビ取材が入っていて、対談などの時間もずっとカメラとマイクを向けられるというのは生涯初めての体験で、不思議なボーナスでしたね。

石井さんがおそらく言わんとしている、ひきこもりの課題はすごく成熟してきていて、もう「支援」でもなく、「プレゼンテーション」(or「啓蒙活動」?)でもなく・・・・・・という感じではないのか、という考え方にすごく共感できます。私も自分が行っているインタビュー活動をひきこもり問題に限らず、その近接領域、あるいはもっと離れた立ち位置の仕事をしている人にまで広げているのは、ひきこもりから離れたいからそうしているわけではなくて、ひきこもりの世界へ還元したいからなのです。これは真面目にそう思っています。
ひきこもりを通して、「どのように考えてもいいんだ、どこからも学ぶ糸口はあるんだ」と気づいたからこそです。それはひきこもりというイシューがあったからなのです。ひきこもりを通して「面白い学びや気づきがあった」のは間違いないのです。

ただ、「支援でもプレゼンでもない」と言えるのは、「支援」も「啓蒙」も必要だから言えるわけです。要は、元気になり、自分のことばを持てるようになった人たちの発信の方法に光を当てる必要がおそらく、いまでは出てきているわけですね。ある種の機が熟するときが経ったのかもしれません(もっとも私はひきこもり問題が世間を賑わした2000年代は知らないのです。自分が界隈に参加するようになったのは2009年からなので)。

その機の熟し方に支援や研究が追いつけていない。だから当事者が発信するしかなくなる。いや、それは消極的な表現ですね。当事者が積極発信をはじめたということでしょうか。支援の形がある種の枠組みを越えた人たち(年齢や、社会的環境や、ひきこもる契機になった事情が研究の想定外だった人たち)に対応できなくなりつつある面が生まれ、それで経験とパワーがある人たちが自らイベントを立ち上げた。今回のイベントも400人集めたわけですから、これはある種の前提の転換ですよね(おおげさかな?)。

話を戻しますが、イベントが終った後、近藤さん、丸山さん、林さんの貴重なお話を沁みるように聞くことができました。今後サイトに挙げていきます。お楽しみに。
また、既に不登校の親の会のかたに関東行き前にお話を伺っています。インタビューのつもりが、さまざまに話が盛り上がり、時間は5時間を超え。帰りが深夜1時過ぎになってしまったという。
こちらも少し遅れてしまいますが、サイトに掲載していきます。
ほかにも発達心理学の先生にぜひお話を伺いたいと思っています。
さまざまな事情がうまく回転すれば、本年度、特に上半期はサイトの充実は確かなものになるのは間違いないことだろうと思います。
 

2016年3月22日火曜日

勝山実さんのインタビューを掲載しました。

ひきこもり名人、勝山実さんのインタビューをホームページに掲載しました。
まあ、インタビューといいますか、前提はそうなんですが、「名人」は極めて聞き上手でもありまして。結局、勝山さんに甘えて自分ばかりが過剰にしゃべっていた気がします。
そもそも「インタビュー」という枠組みの抑制とかあんまり考えないで話をしていたもんで。。。お恥ずかしい。
前半の導入部と、後半の僕の体験部分に見事なツッコミが入っておりますが、もう大爆笑でしたね。
体験の部分は不登校新聞でずいぶん書いてくれたので、本の中でツボにはまっていたんだろうと想像はしていましたが、横浜に行って最初にインタビューを試みた際も「そこか!!」と。私自身盲点であった名人のツッコミでした。その際ももう、爆笑、爆笑で。

書評もそうなんですが、こういう愛あるツッコミは一般論にはできませんが、個人的には「実はそうなんじゃない?」ということなんですけども、こういうアクションこそが有難い。これぞ当事者愛なんだと思う。
けっこうこういう形でつっこんでくれることで「ブレイクスルー」するというと、おおげさだけど、カタルシスは間違いなくありますね。
でも、これって難しいのは、普通はよほど親密な関係にならないとできない表現なんですよ。言えるまでには時間がかかるし、言っても大丈夫、と自然に思える関係が作られてからでないと。
そこはやはり名人の技であり、私にそういうツボをつく技をかましてくれたことがとても有難いことでありました。

勝山さんの書くものや、今回のインタビューの後半の就労についての話や、社会に関する話もそうですが、極めて本質的な観点をストレートに語ってくれるだけに、言葉を聞いたり見たりして不安に思う人もあるかと思います。
でも、ぼくはそう思わない。その辺は考えを共有しているという前提はあるのだけど、それ以上に何というかなぁ。いわく言いがたい、勝山さんには一種の品位があるように思えてならない。それは受け答えの「ぶれなさ」とかに感じられて、ぶれなさに関しては勝山さんの受け答えを読んでも理解してもらえるかと思えます。あとは「やさしさ」。「ひきこもり性善説」は本当でしょう。当事者へのまなざしの暖かさは非常に感じます。これはおそらく神奈川の活動家の人たちの共通項なんじゃないだろうか。

カンニングへのツッコミは全くの想定外でしたが(笑)、勝山さんには一貫した勝山流倫理規範みたいなものが備わっているんだな、と改めて思いました。それも品位品格を感じたところ。
ある種の言行一致を目指している純粋なところがあって、何かね。自分の下衆ぶりを改めて思いましたね。勝山さんって、禅僧のような感じかな?(またことばがうわすべりしてますが)。

あと、今回一番感銘を受けたインタビューのやりとり。勝山さんは校正の中でかなり落としましたが、僕は大人の姿勢のありようを感じ、粛然とした部分でしたので、起して送ったものをここに再度掲載します。「一歩前に出て、声を張って、言い切るしかない」の部分です。


(私が『現実くん』と『大丈夫くん』の間で揺れて、喋りが右往左往する、という語りを受けて)

杉本:やはりそこらへんは勝山さんはね。一端、言い切っちゃうという。これは物がわかっている人も褒める部分だと思うんですけれども。

勝山:仕方ないんですよ。やはりねえ。聞いてる人は寝ちゃうしねえ。

杉本:(苦笑)。

勝山:(笑)全然聴かなくなっちゃうから(笑)。一歩前に出て、声を張って、言い切るしかないんですよ。もう「一本道」なんですよ。もうね。

杉本:そこなんだなあ。

勝山:もう、思っていることハッキリ言うと。選びようがないですからね。

杉本:そこなんだよね、うん。やはり「大人になる」というのはねえ。

勝山:いやもう、そこしかないんですよ。もう選択肢がないんですよ。あるように見えて。

ここに勝山さんの淡々とした覚悟があるように思えました。(おおげさにいえば)
この境地にはなかなか行き着かないけれども。。。目標値ではありますよね。
 

2016年3月12日土曜日

ひきこもる心のケア読書会第二回inかめの会

 昨日石狩・不登校と教育を考える会「かめの会」さまが主催してくれた『ひきこもる心のケア』の第二回目の読書会を開いていただいた。今回は監修者の村澤和多里さんが出席してくれ、村澤さんの視点から多くを語っていただいたので、その角度から私としての感想を考えてみたい。

 二回目の話題は第三部、「発達障害とひきこもり」から話題をはじめた。今回の収穫は村澤さんより発達障がいの中で分類名が種々変遷してきた「自閉症スペクトラム」圏の歴史的推移を説明していただいたこと。現状において、「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」など、知的水準が平均あるいは高い自閉症圏の人たちを専門家がどう見てきて、いま「自閉症スペクトラム」で用語が統一されたことを教えていただいた。

 私の個人的な感想を言えば、専門家が種々の言葉を使い意味する対象の人びとを語る用語が統一されたことは良かったと思うけれど、いわゆるアメリカの精神疾患診断「DSM」を輸入して統一見解とするのは文化環境が違う中で果たして丸まる受容するのはどうなのだろうか?という素人としての疑問もある。それは私自身、その場で伝えたつもりだけど、上手く説明できたかは怪しい。疑問を疑問として問うならば、疑問の説明もしっかりすべきであったが、場を意識する癖が出てしまい、上手く行かなかった(以下、そういう悪癖の反省も含めて、あの場で語れなかったこともこのブログで縷々のべると思う)。

 もうひとつの大きな話題は「ひきこもり」が現代社会の中でことばが持つネガティブな要因も含めて、「現在」の中でどう位置づけられるか、あるいは位置づけられてしまったその要因は何だったのか、という話。

 この件に関しては、社会経済状況の変化との連関を中心軸に考える村澤さんの話題提起が新しい。「ひきこもる心のケア」第四部「社会的排除とひきこもり」と連関する部分なのだが、「ひきこもり」がネガティヴに捉えられ、同時にひきこもりが数として社会問題化され、あるいは問題としてあぶりだされたのは2000年代(正確には1998年の山一證券、北海道拓殖銀行破綻あたり)から進行し始めた新自由主義経済の加速度的なドライブとの関連が大きい推論が語られた。当初は斉藤環氏の「家族関係論」「家族療法論」がひきこもりを考える際に主位置を占めていたが、実は社会構造の大きな変化の中で起きている現象だ、という捉え方に導いていく話になっている。これは第九章の阿部幸弘先生(心のリカバリーセンター長)とつながり、バブル後の経済成長に貢献する労働者の枠組み自体が痩せ細っている中で起きている現象と言い換えても良いような状況として捉えられる。
 読書会の場での話しあいでは、私自身が強引にそこに持っていったきらいもあるけれど、そこから「労働者になれない若者の居場所を持てない状況」「若者サポートがない中で外に出て行く場所が見つからない状況」を私自身は心の中の意識の比重に重心を置いて話したつもり。これもうまく話題にできたか、説明ベタのせいもあっていささか心苦しいところがあるけれども。

 実はこの問題を仔細に検討するにはもっと良い本がある。検討や検証をするに値する本がある。本書の巻末にお勧め本として紹介されている『ポストモラトリアム時代の若者たち』という本だ。(村澤さんいわくの、「青い本」』
 


 村澤さんも共著されたこの本の序章で以下の部分を引用したい。
(前略)若者たちがひきこもりやニートと呼ばれる状態に陥っているのは、彼らが社会に適応できなった結果ではなく、それどころか反対に彼らが社会に適応しすぎた結果であり、いわば過剰適応の一形態を示していることが多いということである。つまり、彼らがひきこもりになった原因とみなされている彼らの内面の問題は、やはり社会全体の問題に深く由来している。したがって、それは心理的領域と社会的領域が重なり合っている複合的な領域で生じている問題であって、たんなる個人心理学の議論に回収することもできなければ、社会・経済の問題へと還元することもできないものである。むしろ、それは心と社会のつなぎめで起こっている問題なのである。(序・失われた時を求めて)
昨日の話の中で村澤さんが強調されていたのは、むしろ社会・経済の問題が大きかったように思われる。国の財政状態の危機から、近未来に来ると思われる地球規模の食料危機まで。だから日本が今後「農業をどう考えるか」ということもある、とラストの方で村澤さんは仰られた。

 先に横浜で開いて下った「新ひきこもりについて考える会」においてもほぼ似たような話が話題にのぼった。若いメンバーのかたは「欲望のダウンサイジング」を考え、ほかのメンバーのかたは「1980年代初頭の生産水準に戻せばよい。別に江戸時代に戻れ、という話ではない」という意見があった。
 村澤さんもその話題には首肯しつつ、「国はその方針を採りたくないでしょうねえ」 と仰る。それはまさにそうだろう。これは政治的に先鋭的に対立するであろう綱引きだし、社会意識の変革がありえるか、の大問題なので。

 なかなか親の会のメンバーのかたがたの前でこのような話を煮詰めていくのは大変なことであるし、いま此れ、この事が必至の課題にはなりにくい。

 でも私自身は、「言行不一致」な人間の癖に、ひとりでいるときはこんな考えが浮かんでは「どうしたものだろう?」と考えてしまうことが多い。社会的な問題、マクロな問題は頭がクラクラするし、自分自身が「ならば農業をやる」とはならない。これに加えて老親を抱えて、いまの年金制度が維持されれば10年後の自分の未来について、財政赤字の国で、アベノミクス(本当?)の国で、日銀がモラルハザードの国で、合理化していくミクロな企業、労働の国で。自分の居場所はどこにあるのだろう??と日々思う。そしておうおうにして、自分自身煮詰まって「これは僕らのモラルの問題なのだろうか?」と自問自答してしまう。

 でも、憂鬱になっても仕方がないと思っている。こういう話は村澤さんに出会う前から自分のカウンセラーとよく話し合っていたことだし、そして結局「俺はいまだにその答えを自分に出せていない」という、究極的にはそのことだ、という認識があるから。

 でも多くの人にとってどうなのか?といえば憂鬱で深刻な話題、ということになるかもしれない。
 だから時間の物差しは私たちひきこもり当事者は二つ持った方がいいと思っている。
 ひとつは社会のものさし。社会がいまどこに在り、どこに向かっているのかという観察。もうひとつは自分の物差し。他人の思惑と関係なく、自分(たち)は誰と関係を持ち、誰と関係を持たないか。信頼する人、信頼するものは当面何なのか。自分の力量でネガティヴ要因をポジティヴ要因に反転できるものがあるのか?ということを意識していく試み。つまりは自分の時間。

 「社会の時間」と「自分のための時間」(後者は比ゆ的表現で、つまりは「ふつう」と思わされている大多数の人たちの考えは良し悪しは自分で判断するために、一端脇に置くということ)
 この二つの時間を常に意識しながら生活をするということ・・・。

 孤独かもしれない。だれかと普通に話し合えない話題かもしれない。でも、どこかで誰かとこういう話題が出来るはず(現に僕はできる人を見つけたー少数であっても。でもこれもなかなか大変。判断を誤ると別の政治や宗教に絡めとられる危険もあり)。
 いずれにせよ、そこに希望を見る。

 読書会の村澤さんの視点の角度から感想を、と冒頭書きながら、やはり大きく逸脱している気がするが、結局村澤さんなり、ほかのこういう文脈の話ができる人であれど、私の頭の中はどんどんこの文章のような浮遊の仕方をするので、自分の意識の流れに逆らわずに前日の様子の主観的なこれをもってのレポートとさせていただいた。

 ご存知のとおり、昨日は5年目の「311」であった。あの日のことは遠隔地であったこともあり、自分の軽薄さを考え直す一分間の午後2時46分の黙祷時間であった。僕は本当にあの津波の怖ろしさ、われわれがどれだけ頑張っても太刀打ちできない自然の圧倒的なものをしみじみ実感したのは実は3ヵ月後のNHK番組での振り返りであった。スマートフォンなどでとられた普通の人たちの提供映像の圧倒的なリアル、ということもいま考えると全く新しいことだと思う。ここにもメディア独占の最終局面の立会いにあるような現代なのだ、という気がする。新しい「公共メディア」とは何か、ということも今後みんなが考えていかねばならないのだろうな。そんなことも思う。

2016年3月2日水曜日

『ひきこもる心のケア』読書会第二回目in石狩かめの会

インタビュー編書『ひきこもる心のケア-ひきこもり経験者が聞く10のインタビュー』の読書会第二回目を行います。主催は石狩・不登校と教育を考える会「かめの会」。
日時は3月11日午後1時から4時まで。会場は石狩総合保険福祉センター・りんくる3F303号室です。

くわしい情報は→こちらで

読書会といいますと、何とはなし、「小難しくならないか」と考えがちかと思います。実際、自分自身もそんな懸念がなくはありませんでした。でも、そこはさすが「かめの会」関係者の人たち。和やかに話題は盛り上がり、二時間があっという間に過ぎていきました。そのため、今回は一時間会場を長くとっていただきました。ありがたや、ありがたや。

さて、二回目は監修者の村澤和多里札幌学院大学准教授(臨床心理学科長)にも参加していただきます。
思いのたけを語っていただきましょう!
また、友人でとまこまい若者サポートステーションの職員で、「苫小牧フリースクール検討委員会」でも活動している藤井昌樹さんも参加してくださることになっています。
いっそう座も盛り上がるかな、と思います。

7日まで参加を受付けているようですので、興味のあるかたはぜひ足を運んでくださいね!
お待ちしております。

2016年3月1日火曜日

若原先生寄贈:『ヒトはなぜ争うのか』

 
 
 昨年インタビューにお応えいただいた若原正己さんの待望の新刊が出て、寄贈いただきました。先月の上旬に送っていただいたにもかかわらず諸般の都合で紹介が遅れて申し訳なかったです。ありがとうございました。
 
 当初は生物学からみて「人はどこから来て、どこへ向かうのか」というようなタイトルの本になると思っていたので、一瞬、本のタイトルに意外な感じを持ちましたが、若原先生の現代社会に対する危機意識が反映したため、このようなタイトルになったのだと思い返し、少し厳粛な面持ちになりました。
 
 
 「遺伝子」や「生物学」というテーマ。私自身、ほんの以前は実に縁遠い世界でした。一般の人たちより全然知らないことばっかりだったと思います。これもインタビューで個人教授していただいたおかげでして、この本もほとんど苦しまずに読み通すことができました。前半は生物の成り立ちの話から入りますから、インタビューで教授していただいた事柄がそのまま本の理解に役立ちました。そのような次第で、ほんのちょっと前の自分には想像もつかないことだったな、ありがたいことだな、というのが正直な感慨です。
 やはり直接に著者とお会いして、直接図示などもしてもらいつつ説明をいただいたり、僕の稚拙な問いにも応えていただいたりした、そういうやりとりの中の中における先生の語り口、表情、言葉の印象その他が記憶の中で再現されるおかげだろうなとと思っており、いかに直接的な出会いの中で教わることが、聞き手にダイレクトに伝わるものかと。再認識される思いです。その意味でも人からいただくギフトが多い昨今だなあとしみじみ実感しています。
 
 もちろん、大変読みやすい構成になっていますし、人文学社会学にもつながっていますから、人文諸科学を専門に学びたい高校生への生物学(自然科学)の参考書としても最良かと思います。

 
 分かりやすい記述の流れの中、白眉はやはり「人はなぜ争うのか」を取り上げた第七章。若原先生の文章には疑問、仮説、反証、自己弁証の跡が見えます。これはインタビューの限られたやりとりの中では再現不能な部分でしょう。言葉にしにくい思案の跡が見え、特に大事な章になっています。
 
 前書き、最終章,あとがきにもありますが、人間の「争う」遺伝子の側面と、「平和」を希求する理念の双方を持つ相反した性格。
 それをヒトは(映画)「ランボー」と、「マザー・テレサ」を兼ね揃えていると表現されています。誠に見事な表現だと思います。「暴力」と「倫理」の両面をヒトは持っている。それをアンドロジェンとオキシトシンというふたつのホルモンから仮説を立てる。これが第七章の最も面白い部分です。
 
 あと、個人的には第一章の「全宇宙の物質の階層性」という整理から始まる部分が面白かった。物質世界から見た宇宙、生物、ヒトの社会という整理の仕方はともするといろいろ混沌とする頭にはひとつの基準としてそこに立ち戻りながら考えると分かりやすかったです。
 
 生物学の立場から見る人文社会の世界。ぜひ多くの人に垣間見ていただきたいと思います。
 
 若原先生のインタビュー(個人授業)はこちらから読めます。ぜひインタビューを参照にしつつ、この本も手にとって戴ければ幸いです。

2016年1月21日木曜日

2017年 『ひきこもる心のケア』 読書会お知らせ

 本年に入り、東京と横浜で「新ひきこもりについて考える会」で通常例会と、『ひきこもる心のケア』の二回目の読書会に参加してきました。いろいろな発見がある集まりでしたが、この二月と三月の二回に分けて、いしかり・不登校と教育を考える会「かめの会」さまで編書、『ひきこもる心のケア』読書会を開催してくださることになりました。ありがたいことです。私も参加する予定です。
以下のリンク先で確認してください。

読書会の案内